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渋沢栄一が新紙幣になると聞いたワイ『(渋沢栄一って誰や・・・?)』 「他の二人もガチでしらん」「いうて福沢諭吉もよく知らんやろ?」 2ch渋沢栄一まとめ

 

渋沢栄一

渋沢栄一(しぶさわ えいいち、天保11年2月13日(1840年3月16日) – 昭和6年(1931年)11月11日)は、江戸時代末期(幕末)から大正初期にかけての日本の武士、官僚、実業家第一国立銀行や東京証券取引所などといった多種多様な企業の設立・経営に関わり、「日本資本主義の父」ともいわれる。

日本史上を代表する経済人として、また初代紙幣頭(後の印刷局長)として日本銀行券(紙幣)の肖像の候補者として過去に何回か挙げられたものの実現には至っていない。

特に日本銀行券C千円券(1963年11月1日発行開始)の肖像候補として最終選考に残ったが、結局伊藤博文が採用された。当時は偽造防止に、主に肖像にヒゲがある人物が用いられていたためである(五百円紙幣は岩倉具視でヒゲがなかった)。採用を見送られた千円紙幣のデザインはお札と切手の博物館の展示物で確認することが可能である。なお、2024年の紙幣改定により渋沢が一万円札紙幣の肖像として使用される見通しとなった。[11]

日本では渋沢の肖像を入れた紙幣は発行されなかったが、1902年から1904年にかけて大韓帝国で発行された初期の第一銀行券の1円、5円、10円券には当時の経営者だった渋沢の肖像が描かれていた。ちなみに、この第一銀行券を「一国の紙幣が日本の民間銀行の銀行券を使用しているのはいかがなものか」と韓国独自の中央銀行(後の朝鮮銀行)へと切り替えたのは韓国統監時代の伊藤博文である[12]。

引用・出典:
Wikipedia – 渋沢栄一

(動画引用・出典:Youtubeチャンネル「TOKYO MX」より – https://www.youtube.com/embed/CzGJ9aD_3iQ )
(動画引用・出典:Youtubeチャンネル「偉人たちの名言TV」より – https://www.youtube.com/embed/bT8YifYIMhM )
(動画引用・出典:Youtubeチャンネル「わいわい」より – https://www.youtube.com/embed/_zeh4OkvuCA )

1: 2019/04/09(火) 09:14:58.10 ID:LoumBGRQ0
なんJ1「渋沢栄一も知らないとか中卒かよ」

なんJ2「流石にこれくらいは誰でも知ってるやろ」

ワイ「結構妥当な人選やな(渋沢栄一って誰や・・・)」

2: 2019/04/09(火) 09:15:20.46 ID:jbRVxHTD0
ガイw

3: 2019/04/09(火) 09:16:06.89 ID:DPRX+9a1p
ただの無知じゃん

4: 2019/04/09(火) 09:16:08.18 ID:Jf/We7B9M
知らんわ

5: 2019/04/09(火) 09:16:21.88 ID:uXZLxAppd
世界史のやつは知らんのか?

6: 2019/04/09(火) 09:17:15.47 ID:KId1pth50
日本経済の父やぞ

渋沢栄一 大蔵省出仕〜実業家時代の功績

(中略)帰国後は静岡に謹慎していた慶喜と面会し、静岡藩より出仕することを命ぜられるも、慶喜より「これからはお前の道を行きなさい」との言葉を拝受した。

その後、フランスで学んだ株式会社制度を実践することや、新政府からの拝借金返済のために、明治2年(1869年)1月に静岡で商法会所を設立した。ところが大隈重信に説得され、10月には大蔵省に入省することとなる。

(中略)退官後間もなく、官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行(第一銀行、第一勧業銀行を経て、現:みずほ銀行)の頭取に就任し、以後は実業界に身を置く。また、第一国立銀行だけでなく、七十七国立銀行など多くの地方銀行設立を指導した

第一国立銀行ほか、東京瓦斯、東京海上火災保険、王子製紙(現王子製紙・日本製紙)、田園都市(現東京急行電鉄)、秩父セメント(現太平洋セメント)、帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビール、東洋紡績、大日本製糖、明治製糖、澁澤倉庫など、多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上といわれている

1887年ころには、渋沢を慕う経営者や管理職が集まる龍門社が組織され、昭和初期には数千名の会員を数えた[4]。

「外人土地所有禁止法」(1912年)に見られる日本移民排斥運動などで日米関係が悪化した際には、対日理解促進のためにアメリカの報道機関へ日本のニュースを送る通信社を立案。成功はしなかったが、これが現在の時事通信社と共同通信社の起源となった。

引用・出典:
Wikipedia – 渋沢栄一

7: 2019/04/09(火) 09:17:45.03 ID:rz4JYRo40
渋沢栄一は知ってるけど他の二人はガチでしらん

12: 2019/04/09(火) 09:18:31.74 ID:4GBPHtOw0
>>7
北里知らないのは不味いと思うで

105: 2019/04/09(火) 09:27:45.24 ID:eUjAi9Z8d
>>7
津田梅子は朝ドラのモデルにもなったで

8: 2019/04/09(火) 09:17:46.48 ID:KQ9rdadra
検索してwiki見たらはえーすごい人やなですぐわかるのに何でしないの?

295: 2019/04/09(火) 09:37:56.42 ID:h/xFpTqMa
>>8
読んでも理解できんかったんやろ、かわいそうな子なんや

545: 2019/04/09(火) 09:48:58.07 ID:HNHXfFiH0
>>8
ライブ感やぞ
検索はやめろ

57: 2019/04/09(火) 09:24:59.92 ID:GVo3Pe7I0
高校で日本史とらんかったからガチで全員わからん

61: 2019/04/09(火) 09:25:19.11 ID:LMWuutOFa
福沢諭吉もなにもんかしらんし

福澤 諭吉

福澤 諭吉(ふくざわ ゆきち、新字体:福沢 諭吉、天保5年12月12日(1835年1月10日) – 明治34年(1901年)2月3日)は、日本の武士(中津藩士のち旗本)、蘭学者、著述家、啓蒙思想家、教育者。慶應義塾の創設者であり、商法講習所(後の一橋大学)、神戸商業講習所(後の神戸商業高校)、土筆ヶ岡養生園(後の北里研究所)、伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)の創設にも尽力した。

新聞『時事新報』の創刊者。他に東京学士会院(現在の日本学士院)初代会長を務めた。そうした業績を元に明治六大教育家として列される。昭和59年(1984年)から日本銀行券一万円紙幣表面の肖像に採用されている。

学問のすゝめ

『学問のすゝめ』(學問ノスヽメ、がくもんのすすめ)は、福沢諭吉の著書のひとつであり代表作である。初編から17編までシリーズとして発行された。初編のみ小幡篤次郎共著。

人には上下の別があるとする儒教思想に由来する、それまでの日本人の常識を完全に否定する「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり」という冒頭の一節は著名だが、この「云(い)ヘリ」は現代における「云われている」という意味で、この一文のみで完結しているわけではない。しかも、この言葉は福澤諭吉の言葉ではなく、アメリカ合衆国の独立宣言からの翻案であるとするのが最も有力な説である[2]。

この引用に対応する下の句とも言える一文は、「されども今廣く此人間世界を見渡すにかしこき人ありおろかなる人あり貧しきもあり冨めるもあり貴人もあり下人もありて其有様雲と坭との相違あるに似たるは何ぞや」である。

つまり、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言われている。人は生まれながら貴賎上下の差別ない。けれども今広くこの人間世界を見渡すと、賢い人愚かな人貧乏な人金持ちの人身分の高い人低い人とある。その違いは何だろう? それは甚だ明らかだ。賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとに由ってできるものなのだ。人は生まれながらにして貴賎上下の別はないけれどただ学問を勤めて物事をよく知るものは貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるのだ」ということである。

引用・出典:
https://ja.wikipedia.org/wiki/学問のすゝめ

9: 2019/04/09(火) 09:18:13.17 ID:qGf0Jeo3d
世界史やってたら知らんくてもしゃーない
中卒はちょっと…

10: 2019/04/09(火) 09:18:20.50 ID:ZqdKnsUPM
埼玉県民なんか?

11: 2019/04/09(火) 09:18:21.32 ID:b4YQLNP4d
コーエーの元社長や
ノブヤボとかウイポの

14: 2019/04/09(火) 09:18:41.55 ID:Jf/We7B9M
>>11
それはシブサワコウ

226: 2019/04/09(火) 09:34:36.80 ID:9y80iH0L0
>>11
シブサワ・コウやんけ

13: 2019/04/09(火) 09:18:41.20 ID:7slBdX6Nd
船のレンタル業で岩崎弥太郎とガチッてた人

15: 2019/04/09(火) 09:19:24.65 ID:dEIZy/zL0
資本主義の父ってなんか胡散臭いな

16: 2019/04/09(火) 09:19:25.63 ID:LoumBGRQ0
でも流石に北里柴三郎は知っとるで

20: 2019/04/09(火) 09:20:09.83 ID:KzT3XJA8p
>>16
結構妥当な人選やな

17: 2019/04/09(火) 09:20:03.30 ID:19PggBspp
経済学部なら死ぬほど聞く名前

18: 2019/04/09(火) 09:20:05.64 ID:69DU2J1P0
関連企業と仕事してるが
神扱いやな

271: 2019/04/09(火) 09:36:36.17 ID:QXG9n+p1M
>>18
みずほ?

19: 2019/04/09(火) 09:20:05.78 ID:7slBdX6Nd
北里というのは知らないですまんな

23: 2019/04/09(火) 09:20:42.63 ID:/asWjvN70
>>19
北里大学ってあるやん

27: 2019/04/09(火) 09:21:25.43 ID:7slBdX6Nd
>>23
あれがその北里なんか・・・

22: 2019/04/09(火) 09:20:34.76 ID:XrGpLgY8r
たまには津田さんのことも…

津田梅子

津田 梅子(つだ うめこ、元治元年12月3日(1864年12月31日) – 昭和4年(1929年)8月16日)は、日本の教育者。日本における女子教育の先駆者と評価される。女子英学塾(のちの津田塾大学)創立者。

初名はうめ(「むめ」と書いた)で、明治35年(1902年)に漢字表記に改めて「梅子」とした。

梅子は、津田仙(旧幕臣・東京府士族・下総佐倉藩出身)・初子夫妻の次女として、江戸の牛込南御徒町(現在の東京都新宿区南町)に生まれた[1]。 父・仙は幕臣であったため、幕府崩壊とともに職を失ったが、明治2年(1869年)に築地のホテル館へ勤めはじめ、津田家は一家で向島へ移った。仙は西洋野菜の栽培なども手がけ、幼少時の梅子は手習いや踊などを学び、父の農園の手伝いもしている。

大学からはアメリカへ留まり学究を続けることを薦められるが、明治25年(1892年)8月に帰国。再び華族女学校に勤める。

梅子は教師生活を続けるが、自宅で女学生を預かるなど積極的援助を行い、明治27年(1894年)には明治女学院でも講師を務める。明治31年(1898年)5月、女子高等師範学校教授を兼任する。成瀬仁蔵の女子大学創設運動や、明治32年(1899年)に高等女学校令、私立学校令がそれぞれ公布されて法整備が整い、女子教育への機運が高まると、明治33年(1900年)に官職を辞する。

父の仙やアリス・ベーコン、大山、瓜生、桜井彦一郎らの協力者の助けを得て、同年7月に「女子英学塾」(現在の津田塾大学)の設立願を東京府知事に提出。認可を受けると東京麹町区に開校し、塾長となり、華族平民の別のない女子教育を志向して、一般女子の教育を始める。

女子英学塾は、それまでの行儀作法の延長の女子教育と違い、進歩的で自由なレベルの高い授業が評判となる(ただし、当初はあまりの厳しさから脱落者が相次いだという)。独自の教育方針を妨害されず貫き通すため、資金援助は極めて小規模にとどめられ、梅子やマラらの友人ははじめ無報酬で奉仕していたものの、学生や教師の増加、拡張のための土地・建物の購入費など経営は厳しかったと言われる。

梅子は塾の創業期に健康を損ない、塾経営の基礎が整うと大正8年(1919年)1月に塾長を辞任する。鎌倉の別荘で長期の闘病後、昭和4年(1929年)に脳出血のため[5]64歳で死去する。生涯独身を貫いた。

引用・出典:
https://ja.wikipedia.org/wiki/津田梅子

24: 2019/04/09(火) 09:20:43.40 ID:0PvRLMyd0
知らなくても別に生きてくことはできるし困らないからな
気にするな

25: 2019/04/09(火) 09:21:19.21 ID:4GBPHtOw0
>>24
無知は悪いことではないが無知を開き直るのは悪いことだぞ

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