本多忠勝って本当に戦国最強なの?「トンボがキレるんだよ」「モビルスーツやからな」「常在戦場で無傷だったのに指切って死んじゃう無能」 2ch反応まとめ
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本多忠勝
本多忠勝(ほんだただかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。忠勝系本多家宗家初代。本姓は藤原氏。通称は平八郎(へいはちろう)。
徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、家康の功臣として現在も顕彰されている。
幼い頃から徳川家康に仕え、永禄3年(1560年)13歳の時に桶狭間の戦いの前哨戦である大高城兵糧入れで初陣する[1]。このとき、同時に元服した[4]。
初首は14歳の時で、鳥屋根城攻めで忠真の部隊に属し、この時忠真が槍で敵兵を刺しながら忠勝を招き、「この首をもって、汝の手柄とせよ」と言ったが、忠勝は「我何ぞ人の力を借りて、以て武功を立てんや (人の力を借りて武功を立てようとは思いません)」[5]と言って自ら敵陣に駆け入り敵の首を挙げたので、忠真をはじめとする諸将は忠勝を只者ではないと感じ入った[3]。
愛槍は「蜻蛉切」。刃長43.8cmの笹穂型の大身槍。穂先に止まった蜻蛉(とんぼ)が真っ二つになったという逸話からこの名が付いた「天下三名槍」の一つに数えられている名槍。茎には「藤原正真作」の銘がある。正真は三河文殊派の刀匠だが、村正の子または弟子との伝承もある。
柄の長さは当時通常の長槍は一丈半(約4.5m)だったのに対し、蜻蛉切は二丈余(約6m)だったという。晩年にはやはり体力の衰えが出てきたと見え、「槍は自分の力に合うものが一番」と言って槍の柄を三尺余(約90㎝)ほど短く詰めた[24]。現在は静岡県沼津市の矢部家が所蔵しており[25]、岡崎城にある「三河武士のやかた家康館」でそのレプリカを見ることができる[26]。
引用・出典:
Wikipedia – 本多忠勝
戦争は1回勝負だから運なんだよ!今川義元も強かったんだけど雑魚の織田信長相手に討ち死にした
あの当時の信長でも雑魚ではないぞ
ボラくらいには出世してた
大抵は数が多くて装備がその時代の最新鋭のものであれば運でも何でもなくて勝つんだけどね。信長が今川公を討てたのは完全に運がよかったとしかいいようがない。
トンボ「はぁ?俺がキレたら大したもんっすよ」
それ槍の切れ味だけじゃね?
その真っ二つになったトンボが地面に落ちた後
口ガチャガチャさせて胸の肉ムニムニさせて翅バタバタさせてんの
もうキショイったらありゃしない
戦場で一度も傷付いたことがないって言うけどやっぱりずっと後方にいただけだったんだな
実際のところ猛将と名高い武士も
ある程度出世したら前線で暴れまわることなんてしなかったんじゃね
軍曹から中尉クラスまでの小隊長中隊長位までだろな斬り込みにいったのは
大隊長クラスが前でて負傷か戦死したら総崩れになっからなぁ
想像したらワロタ
聞いてるか蒲生忠三郎
ワロタ
井伊直政という知勇兼備の猛将がいてな
自身は最前線に立って戦い、後方で指揮してたのは腹心の部下だったそうだ
まぁそのせいで早死にしたけれど
謙信とか蒲生氏郷とかその手のタイプは結構いるな
世界だとスウェーデンの北方の流星王カール12世とか
信長は5倍の本願寺勢に自ら先頭に立って突撃した
どんなに優勢でもある程度上位の武将が首取られたら戦局逆転するしなあ
無駄に前に出るのは猪武者だよな
本当に前線で戦ってたのは性格に問題があった森長可くらいだろうな
島津義弘は戦場で5本の矢が刺さったくらい前線で暴れまわったし
関ヶ原の戦いで敵陣に突撃して突破したのも66歳の大御所になってから
島津のキチガイと比べてもなぁ
甥の豊久は大太刀持って戦場走り回ってたらしいな
島津の退き口って軍事的に見たら壊滅・敗走だよな
9割の兵士を失って最高司令官が帰還して威張ってる感じ
本陣の前横切って退却する形だったようだし、なのによせばいいのにわざわざ追っかけて逆に怪我してそれでなくなった大将がいたもんだからそこで余計に箔が
たまたま上洛した時に巻き込まれた形で主力は薩摩に置いてきた状態
戦力は薩摩屋敷に居た数百人に上方で急募した兵が大部分
急造の兵士で捨てがまれるとか逆にスゲーな
>>10
馬場信春は?
おっと項羽の悪口はそこまでだ
水野勝成ってリアルかぶき者がいまして
あたり前だろ大将死んだら担当してる軍団の統制とれなくなるんだから
一騎打ちなんてまずなかったらしいぞ
種子島の伝来によってどんな猛将でも前線で立ってたら討ち死にする可能性が劇的に増えたからな
戦術が変わったのが戦国後期
山中しか助みたいにそのころでも一騎討ちしてたやつもおるが
武田勝頼は最前線で鎖鎌振り回してた
指切っただけで死ぬ低HPだから仕方ない。
防御は回避力に全振りしていたようだ。
低いのは多分メンタルやで
指切った程度で耄碌したとかいってショックで死ぬ
城攻めなら豊臣秀吉
幸村よりお兄ちゃんの方がすごい
それを知ってるのはなかなか通
大河ドラマ見た人なら皆んな知ってる。
そうか?
兄貴は体もデカかったしかなり強かったろうな
幸村じゃない定期
逸話は色々盛ってるだろ
ちなみにトーナメントは中世ヨーロッパの馬上槍試合が由来
何が違うねん?
秀吉が直接指揮してるのだとかなり強いよ
秀吉が総大将で後方にいて、現場で指揮して戦うのがそこそこ中堅のやつだとそれなりに負けるだけ
ただまあ、ほぼ外交調略で勝ち確してる状態で、これ以上無理しても恩賞少ないから士気低いとこを
敵はこれに勝たなきゃお家取り潰しかもという危機感でやる気満々とかだから、そりゃねーとなる
秀吉が野戦が上手くないというのは長久手の誇大宣伝 よっぽどの無能でなければ絶望的な戦力差でもなけりゃ勝負は時の運
勝負は時の運的な要素を事前に潰して戦に臨むのが秀吉
城攻というか土木工事のスペシャリストだからな
お前がテロを起こしたいとする
爆弾でもサリンばらまきでもなんでもいい
人が密集してる生活区域と、だだっぴろくて見渡しの良い場所ならどっちが成功率が高く、よりたくさん殺せる?
そういう事
これ
20万からの大軍を指揮してほとんど負け無し
島津とかも強いけど島津が天下とっても同じことはたぶん出来なかった
その通説って疑問なんだよね。
渡海した部隊はその狂人に指揮されて狂人の言うとおりに動いているのよ。
それで渡海した先で明国相手に負け無しで生還している。
それって狂人の指揮が適切だったからでは?
じゃあ晩年も優秀な武将のままだったのでは?
元軍がグダグダ負けっぱなしで最後は文字通り皆殺しにされたのと対照的では?って思うわけですよ
現地で好き勝手やって三成がチクりまくった説もあるやん
戦術的に勝ったのは現地指揮官と兵の練度が高かったらじゃね?
それ以前に戦略的に大失敗だったからねぇ
まぁ、あの時代血に飢えた高練度な戦士揃いだったしなぁ。
戦国最強の軍勢が、戦略もない半農の貧民相手に無双してただけ。
そら、やりたい放題できますわな。
俺も以前は同じように思ってたんだけどさ、現地の武将が強かっただけって。
碧蹄館の戦いのあと、兵糧無いから帰りたいって現地部隊の希望を許可してるし、
慶長の役のあとで明軍が三路の戦いって反撃作戦を仕掛けて来たけどそれを撃退できたのは秀吉の命令で作った城のお陰だし、
秀吉の指揮って適切にしか見えない。往年の輝きを失ったボケ老人って評価とは違和感バリバリなのよ。
ボケ老人なら占領地に固執して部隊全滅させてるはずって。
秀吉の目的は明自体でもなくて明を通って西欧勢植民地を追い払う方だからな
最初は共同軍を求めたが明が金儲けを維持しようとして渋ったのでキレた
西欧諸国を追い出した後は、大アジアの統一支配を目論んでたと思うぞ。
たしか、日本式の風習を広めるという構想も文書で残ってたはず。
もしかするとだが、仏教の聖地である天竺を落として、行く末は、天皇の故郷であるイスラエルを目指していたかもしれない。
秀吉が大アジアを統一していたら、西洋の策略家一族、ユダヤやロスチャイルドどどう組していたのか考えると、なかなか面白い。
軍を動かした時点ではもうそうするしかない
最初はそうじゃないし、そうしないと日本もやられると思ってた
なので欧州の侵略拡大が秀吉の焦りの原因
秀吉はバテレン、つまり、西洋諸国との対決を見据えていたんだよ。
明を攻めて、天皇を北京に移して、インドや東南アジアを統一するつもりだったと思う。
家康だって、結局は西洋に肩入れされた薩長にやられて、西洋に経済支配されるに至ったわけだから、秀吉より家康が有能というのは一面的なモノの見方。
秀吉があと10年生きて、大アジアを統一していたら、どうなっていたかだね。