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日本の名城…戦国時代の篭城戦ランキング「3年間も籠城戦を続けた戦がある」「負け戦は何かが試される」

攻城戦

攻城戦(こうじょうせん、英:siege)とは敵の砦、城、城壁都市を奪取するための戦闘のことである。

古代から近世初期にいたるまで、野戦と並ぶ2大戦闘形態の1つであった。

『孫子』では、防御に徹する守備側を攻略することは容易ではなく、攻城は下策で最も避けるべきと述べられている。

城塞の技術は、15-16世紀の火薬、大砲、銃の活躍によって大きく変化しており、この後の要塞を攻める行為も類似の戦闘ではあるが相違点も多い。従って、本項ではそれ以前の攻城戦を中心に記述する。また、兵器の攻撃力が発達した現代の戦争では「大軍をもって城に立て籠った敵を攻める」という行為が行われる可能性は低いが、装備品の有無や城の定義(城参照)によってはこの限りではない。

古典的な戦記などでは会戦が多く描かれるが、実際の戦争は「小競り合い」と「攻城戦」がほとんどを占めたといえる[要出典]。城内の防御側勢力が長期に渡り守勢に徹して攻撃側と対峙し続けることは「篭城」と呼ばれ、城が攻撃側の侵入を阻止し切れずにその支配権を明け渡すことは「落城」、「陥落」と呼ばれる。

引用・出典:
Wikipedia – 攻城戦


(動画引用・出典:Youtubeチャンネル「歴史ゆっくり紀行」より – https://www.youtube.com/watch?v=3saj2X7Y0FI

1: 滅せぬものなし 2012/02/22(水) 02:17:55.81 ID:Gkp4TJEU
負け戦こそ名城の見せ場。
珠玉の篭城戦を選別するスレ
期間×敵兵数×戦後の影響など語れ!

2: 2012/02/22(水) 02:49:09.02 ID:Gkp4TJEU
とりあえず1つピックアップ

田中城攻略戦(天正10年)
期間 2/20~3/1
敵兵数 約10,000
守将 依田信蕃 三枝虎吉

徳川総力をもってしても駿河最後の武田方拠点として残り続け、
最終的には穴山信君の説得により開城した。
徳川軍による田中城への攻撃は、天正6年から天正10年の間に7回も行われており、
実質は4年の篭城戦を耐え続けたのかもしれない。

3: 2012/02/22(水) 11:51:13.97 ID:IzzI10hd
このスレ的に最後の篭城戦は原城の篭城戦でいいのかね?

4: 2012/02/22(水) 14:43:05.45 ID:qn5WUm5Q
西南戦争
熊本城の攻防

6: 2012/02/22(水) 17:50:15.59 ID:m8srDp5K
>>4
戦国時代じゃないだろ

10: 2012/02/22(水) 19:57:49.88 ID:Gkp4TJEU
>>4
時代もそうだけど篭城成功しているのも、スレ主的に不満。

5: 2012/02/22(水) 17:26:08.66 ID:tPrq0Gl/
諏訪原城は家康の対武田戦では強襲で落ちた城だな
外には長篠城か

8: 2012/02/22(水) 19:31:56.74 ID:Gkp4TJEU
原城は期間、敵兵数、戦後の影響の全てでトップかもしれないね。

9: 2012/02/22(水) 19:52:31.73 ID:Gkp4TJEU
大津城の戦い(慶長5年)
期間 9/7~9/15
敵兵数 約15,000
守将 京極高次

東の上田城攻防戦に対し、西の大津城攻防戦といえる篭城戦。
ひきつけた兵数に加え、関ケ原の毛利勢への影響などを考慮すると、
ランキング上位は間違いない。

ランク 120000ポイント+10α(8日×15000人+戦後ボーナス)

11: 2012/02/22(水) 20:33:27.25 ID:tPrq0Gl/
大坂冬の陣

戦術的にのみ見ても攻城戦の見本市

13: 2012/02/23(木) 00:53:04.99 ID:YlTrOMSv
>>11>>12
篭城成功は期間ポイント無限でランクつけらんない。

14: 2012/02/23(木) 11:07:10.55 ID:LzEek5d9
>>13
篭城側勝利あるいは非敗北と攻撃側勝利で分けりゃいいんじゃね?

講和開城だと話も膨らみそうだし。

12: 2012/02/22(水) 20:50:56.20 ID:sMrk2BZc
川越夜戦や今山の戦いはこのスレの籠城戦に入るのか

17: 2012/02/25(土) 23:50:41.64 ID:Y4NptDGb
月山富田城の戦いは篭城側勝利と攻撃側勝利の両方あるな。

18: 2012/02/26(日) 15:24:28.78 ID:+pfpFPuU
見劣りするけど一応岩屋城を推薦しとく。我が家の裏山なんで。


21: 2012/02/26(日) 20:46:29.05 ID:zSLqzniX
>>18
まさに裏山

19: 2012/02/26(日) 15:54:16.31 ID:1kEEf4RU
信州戸石城攻防戦

25: 2012/03/01(木) 22:36:58.12 ID:YT5rQMSB
>>19期間、兵数、戦後の影響忘れてた
天文19年(1550年)7月に信濃林城主小笠原長時を破って
信濃中南部の大半を制圧した武田晴信は、いよいよ信濃北部・東部の平定を目指して
同年9月に北信濃の戦国大名・村上義清の出城である砥石城攻略に乗り出した。
晴信は天文17年(1548年)の上田原の戦いで義清に大敗していたこともあり、
その復仇を目指しての戦いでもあった。また、この城を落とせば、
村上氏の東信濃における防衛線が大きく後退するため、
戦略上も戦術上も重要な戦いでもあった。

26: 2012/03/01(木) 22:40:59.47 ID:YT5rQMSB
>>25
続き
砥石城は小城ではあったが、その名のとおり、東西は崖に囲まれ、
攻める箇所は砥石のような南西の崖しかないという城であった。
このときの武田軍の兵力は7000人、対する城兵は500名ほどでしかなかった。
しかし城兵500人のうち、半数はかつて天文16年(1547年)に晴信によって虐殺された
志賀城の残党であり、士気はすこぶる高かった。

9月9日、武田軍の武将・横田高松の部隊が砥石のような崖を登ることで
総攻撃が開始された。しかし城兵は崖を登ってくる武田兵に対して石を落としたり
煮え湯を浴びせたりして武田軍を撃退し、攻め手の大将の横田高松は戦死した。

9月11日、今度は武田軍の武将・小山田信有(出羽守)による城攻めが行なわれたが、
これも同じく城兵の果敢な反撃にあって散々に打ち破られ、
小山田家臣らが多数戦死している。

兵力においては圧倒的に優位であった武田軍であったが、
堅城である砥石城と城兵の果敢な反撃の前に苦戦した。
しかも武田軍が苦戦している間に、村上義清自らが2000人の本隊を率いて葛尾城から
後詰(救援)に駆けつけて来たため、武田軍は砥石城兵と村上軍本隊に挟撃される。
戦況不利を判断した晴信は撤退を決断するが、村上軍の追撃は激しく、
この追撃で武田軍は1000人近い死傷者を出し(『妙法寺記』)、
晴信自身も影武者を身代わりにしてようやく窮地を脱するという有様であったとまで言われている。

27: 2012/03/01(木) 22:44:23.77 ID:YT5rQMSB
>>26
続き
上田原の戦いは村上軍にも多大な犠牲があり、戦術的には引き分けと言ってもよい合戦であった
(戦略的には武田軍の負けである)が、砥石城の戦いは武田軍の完敗であった。
兵力的にも、7000人の武田軍の3分の1程度の2500人の村上軍相手に、
しかも村上軍の犠牲が皆無に等しいのに対し、
武田軍は武田二十四将に数えられる横田高松をはじめおよそ1200人もの将兵を失った。

武田信玄の生涯の中で、砥石城の戦いは最大の負け戦といわれている。
このため、この戦いは「砥石崩れ」と呼ばれている。

しかし、天文20年(1551年)武田方の部将・信濃先方衆の真田幸隆の調略によって、
兵を動かすことなく砥石城は武田軍の手に落ちた。
村上義清の勢力はこれを契機として衰退し、
天文22年(1553年)義清は長尾景虎を頼り、越後へ落ち延びた。
義清、高梨政頼等の信濃北東部の国人が越後の長尾景虎を頼ったことから、
有名な川中島の戦いへと発展していく。


35: 2012/03/03(土) 10:54:08.59 ID:X+qauP01
>>26
丸々Wikipediaの文章に質問するのもなんだけど、横田高松って殿で討ち死に
したんじゃないの?
横田高松の項ではそうなってるけど、どちらが正しいんだろう

20: 2012/02/26(日) 19:32:58.73 ID:QpJUCqRI
衛生痛感させた籠城戦―七尾

24: 2012/03/01(木) 13:59:52.64 ID:DCK9kAnv
大坂城

31: 2012/03/03(土) 00:24:50.46 ID:7sr9X/V3
第2次月山富田城の戦い 永禄8年(1565年)
期間 4/17~翌年11/21降伏(約580日)
敵兵数 約20,000?
守将 尼子義久

戦国史上屈指の長期篭城戦。
尼子氏の底力恐るべしというとこだろうか。

ランク 1160万ポイント+1α

32: 2012/03/03(土) 00:40:45.70 ID:GNOUNTJJ
そういえば逆に尼子の大軍を毛利元就が吉田郡山城で撃退したこともあったっけ
居城を大軍で包囲されるなんて絶望的だろ 普通は滅びるパターン
そこから逆にやっつけちゃうから凄まじいわ

33: 2012/03/03(土) 00:48:12.53 ID:7sr9X/V3
石山本願寺包囲戦 天正6年(1578年)
期間 7/18包囲網完成~翌々年3/7講和(約594日)
敵兵数 約20,000?
守将 本願寺顕如

現在も続く本願寺史上最大の危機であった篭城戦。
篭城期間中の戦がほとんど見られないが、
宗教勢力の力を認識させた本願寺、
これだけの包囲網を敷いた織田信長、
両者の財力は恐るべき規模だったと考えられる。
おそらく戦国史上最長の篭城戦だろう。

ランク 1188万ポイント+5α


34: 2012/03/03(土) 01:21:48.84 ID:yi0XASMz
>>33
三木の干殺しは1年10ヶ月やっとる。

38: 2012/03/04(日) 08:11:23.24 ID:02S9/s1N
>>34
8千人の兵で7千人を囲み続けたって凄いね。
補給もなんども復活しているし、
秀吉と半兵衛の頑張りが凄い。

36: 2012/03/03(土) 11:05:54.96 ID:GNOUNTJJ
石山合戦は信長公のほうがよく耐えしのいだと思う
あのときは義弟・浅井長政の裏切りからドミノ倒しみたいに次々と反信長勢力が
蜂起し、本願寺もまず間違いなく勝てるとふんだからこそ参戦した
実際もうすこし反信長連合の連携ができてれば勝てた戦いだ

37: 2012/03/03(土) 13:58:03.38 ID:TE2YPdzM
というか家康も裏切ればそこで詰んでいた

39: 2012/03/04(日) 16:30:35.72 ID:02S9/s1N
大坂の陣
期間 12/2~12/20、5/7(18日+1日)
敵兵数 約200,000
守将 豊臣秀頼

最強の平城も堀を失ってはただの屋敷か。
豊臣氏は高台院の死をもって完全に消滅した。

ランク 380万ポイント+0α

41: 2012/03/04(日) 23:04:34.78 ID:02S9/s1N
小田原城の戦い(天正18年)
期間 4/6~7/5(90日)
敵兵数 約160,000
守将 北条氏直


戦国最高の名城、その能力を見せ付けた篭城戦。
篭城中も城内で市がたっていたという。
この未曾有の抗戦を評価されたのだろうか、
北条宗家は幕末まで存続した。

ランク 1440万ポイント+3α(期間×敵兵数+戦後ボーナス)

42: 2012/03/04(日) 23:20:27.08 ID:X3EP0GEI
>>41
いや、宗家は氏直の系統なんで滅びてる。明治まで残った狭山藩はあくまで
氏康の五男で外交役を務めた氏規の系統であって、宗家ではない。

43: 2012/03/05(月) 00:34:03.65 ID:mGW7jL2k
北条氏盛が本家を継いだという説の出所はなんだろう?
一族がその相続を認めていれば存続だろうけれど。

44: 2012/03/05(月) 01:22:26.79 ID:x92VYxEW
>>43
織田家だって宗家は信忠->秀信の嫡系で、秀信が高野山から追放されて野垂れ死に
した時点で滅びていて、信雄の系統はあくまで傍系という扱いのはず。

やっぱり嫡系だけを見ていくのが正しいんじゃないかと。もちろん、時の権力者の
指示によって名跡を継ぐ場合はあるけど。

45: 2012/03/05(月) 23:24:28.48 ID:mGW7jL2k
その基準だと織田信秀の時点で傍系なんだけどね。

46: 2012/03/07(水) 01:02:24.76 ID:iaQ7qK/H
兵力わからないのはダメなん?

47: 2012/03/07(水) 19:09:02.49 ID:PhjgJjah
>>46
個人的な推定とかでもいいと思う。
何か数字があれば、それを話し合うのもいいし。

48: 2012/03/08(木) 23:32:15.11 ID:d8AfAdAr
大河内城の戦い 永禄12年(1569年)
期間 8/28~10/3和睦(約38日)
敵兵数 約70,000
守将 北畠具教

信長の伊勢攻略、総仕上げとなるはずだった篭城戦。
木造城を攻めていた北畠軍が逆に大河内城に追い詰めらるという
厳しい始まりであった篭城戦にも関わらず、
篭城側が非常に善戦したため、ついには和睦に到った。

城の明け渡し、北畠氏の家督譲渡などはあったものの、
北畠氏の所領は全て温存され、実権も信雄の元服までは、
具教、具房が握ったままであった様子。

ランク 266万ポイント+6α(期間×敵兵数+戦後ボーナス)


49: 2012/03/09(金) 02:31:57.45 ID:L1WVTaHd
新井城の戦い  永正10年(1513年)~

期間 永正10年10月~永正13年7月
敵兵数 約7000?
守将 三浦義同、三浦義意

北条早雲の相模統一戦の最終戦。

新井城は三方向を海(多くは断崖)に囲まれ、東の跳ね橋を上げるとほぼ誰も入れなくなるという、ある意味究極の城。
断崖にある洞窟には兵糧が貯えられていたともいう。
「三崎城」と同一の城とも言われるが、そこは良く分からない。

早雲は三浦氏を三浦半島のこの城まで追い詰めたが、この城には手こずり、兵糧攻めにすることにした。
途中、扇谷上杉氏から何度か援軍も送られたが、早雲はこれをことごとく打ち破った。
約3年に渡る籠城戦の末、兵糧が尽きた三浦義同・義意親子は、城を出て討ち死にした。
この時、死んだ三浦勢の血のために、海が油を流したように見えたため、この地は「油壷」と呼ばれるようになったという。

義同の辞世の句、「討つものも 討たるるものも かわらけ(土器)よ 砕けて後は もとのつちくれ」

55: 2012/06/04(月) 20:03:08.07 ID:OwUgJgYz
>>49
油壺にこんな由来があったとは…

三浦氏は奮戦虚しく滅亡したけど、唯の敗者ではないわ
負け戦は何かが試されるね

良スレage

57: 2012/06/05(火) 08:48:44.43 ID:ISKAGtRz
>>55
結構有名かと思ったのだけど、知られていないんだね。
まあ、地元でも長年住んでいないと知らないみたいだけど。

>>56
城の構造って知っているよね。
出入り口が絞ってあるから、攻める方も、守る方も基本的にはそこが攻防戦
となる。
逆に言えば、そこを押さえて補給路さえ断てば、籠城させていさせられるん
だよね。
又、扇谷上杉を押さえる為に、玉縄城も作ってる。
毛利の時とは本拠との距離が違うし、基本的に違うかもなぁ。

58: 2012/06/05(火) 15:44:35.80 ID:xCXUfAlP
>>57
昭和50年代の集英社の漫画版日本の歴史戦国時代編の北条早雲の所で
油壺の攻城戦結構触れられていたな、デマと使って領内から盲人追い出して、スパイさせて
三浦氏の内情探らせたとか

59: 2012/06/06(水) 08:25:26.46 ID:Tzn1Qgws
>>58
そう言えば、歴史の漫画あったね。
憶えているのは、川中島の合戦。
主人公かニンジャかなんかで、信長?の命令で川中島の合戦を見に行くヤツで、
信繁が討ち死にした時に、河原の石を積んで墓標作って手を合わせてたっけ。
今思えば、合戦中に墓作るってのは、とっても変だなw

当時の三浦氏は、同寸が住んでいた岡崎(平塚市)が本拠地で、早雲に強襲
されて、最終的に子の義意がいる新井城に落ちてきたから、城には動員でき
る数よりかなり少なかったと思う。
それもあって、対上杉に重点をおき、新井城はただ囲んで自滅を待っていた
のかもしれない。

51: 2012/03/09(金) 03:59:11.22 ID:bK++Nc3J
3年とはすごいなぁ。
攻められるも攻めるも命をかけて対峙して日々をどう過ごしてたんだろう。

56: 2012/06/04(月) 23:19:04.75 ID:rwr/HlXh
>>51
これ毛利の月山城攻防戦でも思ったけど当時は農民兵が主力で、長期で長距離の遠征は不可能とよく言われているけど
なのにこんな長期の包囲戦が可能だったのはなぜ?、城包囲の場合攻城側の兵士は途中離脱、参加をさせていたの

52: 2012/03/09(金) 20:11:39.85 ID:rrOov+63
埼玉三名城

川越城
岩槻城
忍城

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1件の返信

  1. 各地の名城を観光するときは「その城を攻めあがる雑兵ごっこ」をしながら歩くと日本の城の設計がよくわかる。山城は敵を迎え殺す装置。

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