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天皇って戦国時代どうやって暮らしてたの?「10万石しかなかったってホント?」「それは江戸時代で戦国期はもっと極貧」…2ch歴史まとめ

 

戦国時代

日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。

世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。

領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。

引用・出典:
Wikipedia – 戦国時代(日本)

(動画引用・出典:Youtubeチャンネル「歴史ゆっくり紀行」より – https://www.youtube.com/watch?v=sG_CUfxwjP4

(動画引用・出典:Youtubeチャンネル「2ちゃん傑作のスレ」より – https://www.youtube.com/watch?v=Pn3QsIN-nPU

1: 2006/06/12(月) 01:32:11
とかいうことを話すスレです

474: 2010/07/14(水) 18:00:16
>>1
一日中鼻くそほじりながら寝っ転がってたんじゃね

38: 2006/06/29(木) 02:04:55
>>1
その頃の天皇の現実政治と関わりが深い大きい行為としては、官位授与と改元が挙げられる。

朝儀の費用や官位の礼銭は、命の綱ともいうべき収入となっていた。
まさに彼らは、官位授与と改元をなりわいとする、政治的職能集団だったのである。

2: 2006/06/12(月) 01:40:45
1564年に書かれたガスパル・ビネラという人の報告書には、
「天皇は少しの兵ももっておらず、そのためいつも困窮していたが、国民達には尊敬されていた」
とある。

翌年の、宣教師ルイス・フロイスの報告書にも
「都には宗教上の位を持つ人がいて、日本人は天皇を日本の頭としてほとんど神であるかのごとく尊敬している」
と書かれている。

貧窮を極めた天皇であるが、それでもなお国民の大多数の人達に敬慕されている・・・・。
こうした外国人の見方は当時の状況をかなり正確に表したものだと考えられている。

ちなみに、フロイスは足利将軍にも触れている。
「威厳のある地位を持っているが、実力は乏しい。戦国大名はほとんどその力を認めておらず、尊敬もしていない」

51: 2006/07/06(木) 15:15:50
>>2
それは信長が義昭の力を削る為に天皇の存在を天下に示した為
将軍より上の存在がいると言う認識を持たせて
天皇の勅命により将軍を追放したとすれば全国の非難を受けなくて済む
また、宣教師なども対外政策に利用した

3: 2006/06/12(月) 01:42:29
神ですから・・・

5: 2006/06/12(月) 01:49:08
さてと・・・
当時テレビも新聞もないのに
なんで見たこともない天皇を国民の大多数がマンセーしてたかの件。

10: 2006/06/12(月) 02:15:26
>>5
神と同じで見た事がないからこそとも言えるのではないか

488: 2010/10/22(金) 00:51:34
>>5
農民はそもそも自分の領主ぐらいしか知らなくてもよかった

商工業者だって奉公人風情は同じこと

一部の知識層だけで世の中が回っているのが時代が近代以前のごく一般的な話

6: 2006/06/12(月) 01:51:59
少なくとも畿内周辺の雰囲気の中にはあったんじゃないの

7: 2006/06/12(月) 01:53:17
91 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2006/05/24(水) 00:32:24
一向一揆の時に天皇の勅命で和解したんだけど、
信徒には本願寺明け渡しは天子様の御意だと説明されたとか記録が有った。
知らないわけねーな

8: 2006/06/12(月) 02:04:24
戦国時代は即位式のお金すらなかったり内裏修理費すらなかったりと大分困ってたそうだ
時折、大名からの献金があったり(官位と引き換えのケースが多い)してなんとかもっていた
信長が台頭すると御料所回復や継続的な支援が得られるようになり落ち着いた

9: 2006/06/12(月) 02:09:55
奥野高広氏の研究の中で室町後期の皇室御収入という項があり、
1487~1569までの82年間の御領毎の収入表を掲げ、1521~1569までの平均収入額は620貫文、
他に禁裏御修理費として125貫文、合計で750貫文ほどらしい


他に雑収入や献金などの臨時収入もあったと考えられるので、
事実はこの額以上らしい。

21: 2006/06/14(水) 02:42:15
>>9
信長が石山本願寺から徴収した税が五千貫じゃなかったか?

皇室の台所事情、寒すぎ。

22: 2006/06/14(水) 20:31:40
>>21
あくまで御料所や禁裏修理費の徴収での収入なんで、実際はもっとあるようだよ
何より献金額が大きいようだからね
でも後奈良天皇なんかも即位式が行えず、献金によってようやく出来たから
経済事情が相当逼迫してたのは確かかと

ちなみに室町前期だとこの御料所収入は7500貫文あったらしく
戦国期に10分の1に落ちてるらしい

11: 2006/06/12(月) 02:50:27
日本神道は全国に広まってただろ

15: 2006/06/12(月) 16:50:49
>>11
見たことがないはそういう意味じゃないと思う

12: 2006/06/12(月) 02:52:00
天皇を崇めるようになったのは
もっと後の時代だろ

13: 2006/06/12(月) 03:16:00
天皇が全国に立てさせた国分寺とか
分かりやすい存在を示す建造物ないし地名はそこかしこにあったから、存在を知ることは容易くできたんじゃないの?
戦国だからってまったく情報を入手できないわけじゃないだろうし

16: 2006/06/13(火) 15:37:43
領主が勝手に作った氏神を
領民は疑いもせず祀ってたんだろ?

墓参り程度の事かもしれないが

17: 2006/06/13(火) 18:43:07
氏神って領主が勝手に作れるもんじゃなかろう

18: 2006/06/14(水) 01:13:41
天皇という言葉すらしらないんじゃない?

20: 2006/06/14(水) 02:21:29
>>18
天子とかは知ってたかも名

19: 2006/06/14(水) 01:26:28
もともと全国の民は天照大神(太陽)を崇めてたんだよ
どっかから来た馬の骨の王がその神の権威を借りて成功したと


134: 2006/12/13(水) 13:05:57
>>19
天照大神信仰自体が奈良時代にできたんじゃないの?
太陽神信仰ってどこの国でも大抵「男神」なのよ。それが日本の場合
女神になってる時点で怪しい。

23: 2006/06/15(木) 11:20:47
各地(地方)の豪族達が位を貰う為に相当の貢物をしていたのはあた

24: 2006/06/15(木) 12:41:51
かなーり歴史の表舞台からは遠ざかってるね
特に何もしてないと思う

25: 2006/06/17(土) 17:36:18
戦国期には天皇も他の公家と同じ悲惨な生活を送っていたのか?

26: 2006/06/19(月) 16:42:59
後柏原天皇 明応九年(1500)践祚→永正十八年(1521)将軍義稙や本願寺の費用調達で即位

後奈良天皇 大永六年(1526)践祚→天文五年(1536)諸大名の献金で即位
(諸大名・・・北条、大内、今川、土岐等の名前が出ている)

正親町天皇 弘治三年(1557)践祚→永禄三年(1560)毛利らの献金で即位

と徐々に期間は短くなってはいますが、随分時間がかかったものです

27: 2006/06/19(月) 16:45:40
どうも今日はageてしまって困る

28: 2006/06/24(土) 22:25:42
本能寺朝廷黒幕説をどう思う?

29: 2006/06/25(日) 17:06:12
台所事情考えると、かなり薄い。
しかもそれだけの大義名分を光秀が、微塵も表に出してないのも疑問。


30: 2006/06/25(日) 22:01:06
素朴な疑問なんだけど、
禁裏は誰によって警備されていたの?

33: 2006/06/26(月) 14:20:23
>>30
将軍家が京で健在のときは大番がいた
(大番催促って高校で習うよね?)
公家が警護を勤める禁裏小番というのもあって
これは摂関家以外の公家ならみんな勤めた

31: 2006/06/25(日) 22:47:38
古式な朝廷の財政収入は詳しい事はあまりわからない。
神宮からの貢送やわずかばかりの勤皇家達からの善意でくらしていたんじゃないのかな。
実力をもった大名からの支援はあまりなさそう。織田家は結構していたらしいが。

32: 2006/06/26(月) 14:07:55
武家が叙位・任官されるときに馳走(礼銭)を出すしきたりだった
信長も最初のうちは「こういうときは馳走を出すものですよ」と
たしなめられたりした

37: 2006/06/27(火) 14:15:19
>>35
その通りだね。
禁裏小番に話をつなげることばかりが頭にあって
思いっきり筆が滑ってしまった。ごめん。

>>32の補足だけど、礼銭を出すという約束で叙位
されながら、叙位された後は催促無視で踏み倒した
詐欺まがいの事例もあって、担当の公卿が日記に
愚痴を書き残したりもしてる。
無知な俺でも知ってるからにはたぶん有名な
言継卿記にあった話だと思うが記憶が定かでない。

34: 2006/06/26(月) 15:15:48
上下北面、西面、滝口など院周辺にもいたね

35: 2006/06/26(月) 17:05:08
大番って鎌倉幕府の職制で、南北朝までじゃないか?
室町では侍所が担当で御門役奉行が置かれたと思うが

禁裏小番は活躍したみたい

36: 2006/06/27(火) 03:30:08
後奈良天皇の十三回忌の法会でも金がなかったらしい。
結局山科言継が岐阜まで直接出向いて信長・家康から二百貫の献金を受けたとか。

39: 2006/06/29(木) 16:15:31
後奈良天皇なんぞはせっせと手紙書いて金もらってたみたいらしいな。


40: 2006/06/29(木) 16:32:01
官位濫授の例としては、本来幕府の侍所頭人しか与えられなかった左京大夫を
一時期に大内義興、伊達稙宗、武田信虎、北条氏綱に与えたことがあげられる

稙宗は旅費を含めてだが、二百五十五貫文使ったそうだ

41: 2006/06/30(金) 23:44:16
百官を統べて天皇を補佐すべき関白は一体何をしていたのか?
秀吉が関白になったのは国政上の権限を利用するためだったとか
秀次が関白となり独自の権限を行使したため、秀吉は切腹させざるをえなかった
という意見があるが、そのような権限はそもそも関白にあったのだろうか。

44: 2006/07/02(日) 00:46:11
>>41
実際は全く反対で、この時期の関白は朝廷政治から疎遠となり、むしろ意識的に距離を置こうとしていました。
たまに開かれる伝統的朝儀には参加していましたが、実質を伴う官位授与、改元に関わってませんでした。
それだけでなく、摂関家の公卿は陳儀には全く参加せず、消息宣下の上卿にもならなかった。
改元についても摂関家の公卿は陳儀に参加せず、関白は内覧する立場にあったが、出仕せず意見を求められても返事をしなかった。

それは摂関家が禁裏小番衆に最後まで参加しなかったことにも現れています。

42: 2006/07/01(土) 19:45:08
あるといえばあるし、無いといえば無いというか
没落した足利将軍の例を見るまでも無く、
経済力の伴わない権威では人はついて来ないから

43: 2006/07/01(土) 20:07:12
架空の人物かもしれないが、神武天皇ならバシバシ戦国大名をぶった切っていったんだろうぁ。
信長も謙信も信玄も相手にならない強軍事力をもった天皇陛下もかっこいい。

45: 2006/07/02(日) 17:28:35
今谷明の戦国期天皇権威保持説についてどう思いますか?

53: 2006/07/07(金) 22:02:16
戦国時代なんて山城付近しか天皇が何かなんて知らなかっただろ
存在に気がついたのが信長だけだし
信長が持ち上げなかったら天皇家も消えていたかも知れない

54: 2006/07/07(金) 23:21:28
今の天皇家だって国民の税金収入で暮らしている訳だから
昔も今も変わらない、って事か?


55: 2006/07/08(土) 09:20:00
国費できちんと生活できてるぶん、現代の方がましでしょ

56: 2006/07/08(土) 23:10:50
本願寺顕如なんかは
信長が11年も戦い続けてついに倒せず、朝廷に講和を仲介してもらった相手。

信長の本願寺引渡しの要求を蹴り交戦、1576年5月の戦いでは[土高]直政
などの有力武将が戦死するなどの激戦を演じるも
後陽成天皇の仲介により1579年に本願寺は紀伊国鷺森に移転することで解決をみている。

1600年の関ヶ原の戦いでも
細川藤孝の居城・丹波田辺城を石田三成の命を受けた小野木公郷の軍勢
1万5千が包囲したとき、
後陽成天皇が勅旨を出し、西軍に城攻めを中止させ、城主・幽斎には開城を
勧告して成功している。

57: 2006/07/12(水) 23:40:26
天皇の妻はどこから迎えられていたんですか?

58: 2006/07/13(木) 10:36:06
この時期の天皇に「正式な妻」はいない。
適当なお公家さんの娘が女官仕えしているのに手を着けるという・・・

正式な妻が復活するのは正親町天皇(女御・正親町町子)からだったっけ?

59: 2006/07/13(木) 16:23:37
後陽成天皇の女御、近衛前子じゃね
ところで正親町町子って?

ちなみに中宮はずっといないんだね
後醍醐帝、西園寺禧子、珣子内親王
光厳帝、懽子内親王、以来


後水尾帝、徳川和子まで、女院はいるけど

60: 2006/07/13(木) 16:59:45
ところで皇室の窮乏の話のつづきだけど、

後土御門崩御の時は、葬儀の費用がなく
四十九日間黒戸の御所に置かれたそうだ

61: 2006/07/15(土) 16:24:58
信秀のおっさんみたいな田舎大名はちまちま貢いでたみたいだけどな

62: 2006/07/16(日) 00:33:41
四千貫ってちまちまなんだ
それとも、四千貫を何度も貢いでいたとか?

63: 2006/07/16(日) 00:36:06
今で言うと一貫が十万円ぐらいだっけ?

146: 2007/04/07(土) 01:35:19
>>63
江戸時代だと屋台の蕎麦1杯が16文
現代の貨幣価値だとまぁ16文=300円くらいだろうか
これだと4千貫で7500万円
通常は1文=25円(屋台蕎麦=ファストフードが400円)とされるがそれだと1億
売春婦は一番安いのが24文(1文25円で600円、18.75円で450円)
どっちにしろ激安
人間の値段が安かったんだな

100貫で188万~250万円、20貫だと38万~50万円
信秀以外の大名はご祝儀程度だな
やる気ない

20万貫の大名(小田原征伐後の佐竹程度)で年収37億円
太閤検地の常陸と尾張の石高は大差ないから
勝幡織田家の国家予算は傘下の小領主分込みで年20億くらいか
そっから7500万~1億円の拠出(下心あり)を高いとみるか
40万~250万円しか出さない他の守護クラスの大名がセコイとみるか

147: 2007/04/07(土) 15:15:08
>>146
米価換算・物価換算どっちで算出してる?
どちらを採用するかでかなり差が出る。

64: 2006/07/18(火) 16:31:23
一貫文は米1石(~4石くらいまでの説もあるけど)
一石=一両とすると七万~十万円くらいかな?

65: 2006/07/18(火) 21:01:57
権威だってそんなにあったとは思えないな。
仲裁したといっても、大名たちが権威に恐れ入ったわけじゃなく、
一つには信長が本願寺や浅井、朝倉と停戦した時のように、
双方に停戦することにメリットがあったから成立したのであって、
メリットがなければ聞く耳持たずに戦い続けただろう。

もう一つには、浅井、朝倉や本願寺、あるいは関ヶ原のときの
細川幽斎にせよ、信長や豊臣家が天皇の権威を利用している以上、
天皇の名による停戦なら騙し討ちにしないと考えた点が大きい。

そういう点を考えた上で、信長や幽斎が
確実に停戦を成立させるために天皇を担ぎ出したと
見るのが妥当ではないだろうか。

66: 2006/07/18(火) 21:12:56
>>65
>一つには信長が本願寺や浅井、朝倉と停戦した時のように、
 双方に停戦することにメリットがあったから成立した

お互いのプライド保つための役割?
仲間やら親兄弟やら死んだせいで復習の戦争続けたがる部下達を
納得させるための役割?

67: 2006/07/19(水) 17:39:25
天皇に権威があるのは依存はない
あるちゃあるでしょ、いつの時代も

だがここは暮らし向き中心のスレと思うよ

68: 2006/07/20(木) 10:45:41
戦国期天皇の葬礼

・後土御門帝 明応九年(1500)九月二十八日崩御 十一月十一日火葬
・後柏原帝   大永六年(1526)四月七日崩御 五月三日葬礼
・後奈良帝 弘治三年(1557)九月五日崩御 十一月二十二日葬礼

69: 2006/07/25(火) 15:46:54
天文四~五年(1535~36)後奈良天皇即位の礼のための献金

大内義隆 2140貫+100貫
朝倉義景 100貫
長尾為景 100貫
土岐頼芸 10貫


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1件の返信

  1. 意外と知らない戦国期の天皇事情

    旧体制の歴史と権威をお借りして政治するところは戦国の世も同じなのかもなあ

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