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オスマントルコ帝国について語ろう「料理が美味しいイメージ」「皇帝が替わるたびに兄弟皆殺しの継承戦してた」

 

オスマン帝国

オスマン帝国(オスマンていこく、オスマントルコ語: دولتِ عليۀ عثمانيه‎, ラテン文字転写: Devlet-i ʿAliyye-i ʿOs̠māniyye)は、テュルク系(後のトルコ人)のオスマン家出身の君主(皇帝)を戴く多民族帝国。15世紀には東ローマ帝国を滅ぼしてその首都であったコンスタンティノポリスを征服、この都市を自らの首都とした(オスマン帝国の首都となったこの都市は、やがてイスタンブールと通称されるようになる)。17世紀の最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリー、チェコスロバキアに至る広大な領域に及んだ。

アナトリア(小アジア)の片隅に生まれた小君侯国から発展したイスラム王朝であるオスマン朝は、やがて東ローマ帝国などの東ヨーロッパキリスト教諸国、マムルーク朝などの西アジア・北アフリカのイスラム教諸国を征服して地中海世界の過半を覆い尽くす世界帝国たるオスマン帝国へと発展した。

その出現は西欧キリスト教世界にとって「オスマンの衝撃」であり、15世紀から16世紀にかけてその影響は大きかった。宗教改革にも間接的ながら影響を及ぼし、神聖ローマ帝国のカール5世が持っていた西欧の統一とカトリック的世界帝国構築の夢を挫折させる主因となった。そして、「トルコの脅威」に脅かされた神聖ローマ帝国は「トルコ税」を新設、中世封建体制から絶対王政へ移行することになり、その促進剤としての役割を務めた[6]。ピョートル1世がオスマン帝国を圧迫するようになると、神聖ローマがロマノフ朝を支援して前線を南下させた。

19世紀中ごろに英仏が地中海規模で版図分割を実現した。オスマン債務管理局が設置された世紀末から、ドイツ帝国が最後まで残っていた領土アナトリアを開発した。このような経緯から、オスマン帝国は中央同盟国として第一次世界大戦に参戦し敗れた。1924年、アナトリアのトルコ共和国に取って代わられた。

引用・出典:
Wikipedia – オスマン帝国

 

2: 2014/03/29(土)00:55:21 ID:???
料理が美味しいイメージがある

 

3: 2014/03/29(土)10:53:58 ID:???
オスマン帝国って代替わりの度に兄弟皆殺しにして皇帝が
即位してたらしいな

 

4: 2014/03/30(日)14:57:26 ID:???
>>3
クーデター(トップの兄弟は本人にその気がなくても担がれる)
防ぐには正しいかもしれない。

 

5: 2014/03/30(日)15:45:30 ID:???
ジェムとか実際に反乱起こした兄弟いるからな

 

8: 2014/04/05(土)18:16:22 ID:???
>>5 ジェムの息子は最終的に亡命先のヨーロッパでカトリック貴族に
なったらしいが子孫とかいるんだろうか?
いたらオスマン家最後の一族になるかもしれん

 

10: 2014/05/05(月)22:18:05 ID:???
>>8
オスマン家の直系子孫はいまニューヨークでサラリーマンやってるとか

 

12: 2014/05/06(火)01:03:57 ID:???
>>10 なら安泰だな

 


6: 2014/04/01(火)06:53:26 ID:???
チューリップ好きだったのはアフメト3世だっけ?

 

7: 2014/04/01(火)14:59:06 ID:???
フランス人が母親の皇帝って誰?
エイメ伝説とは別の奴で

 

16: 2014/05/07(水)02:51:39 ID:???
>>7 ウィキによるとムスタファ3世

 

9: 2014/05/05(月)22:11:50 ID:???
ロクゼラナ以降、後宮の愛妾が政治介入して酷いことに・・・

 

11: 2014/05/05(月)22:19:30 ID:???
>>9
といってもスレイマンから大トルコ戦争までは宮廷の外だと帝国は安定してた。
上り坂は終わったけど下り坂は始まってない。高原だったんだ。

 

13: 2014/05/06(火)01:04:59 ID:???
>>9 ロクゼラナが原因でハレムが宮廷の代名詞になったらしいな
某所でサゲマン女扱いされてて吹いたことがある

 

14: 2014/05/06(火)23:04:09 ID:???
オスマントルコって言い方は今の若い歴史家の間じゃだめっていわれるぞい

 

17: 2014/05/07(水)08:58:09 ID:???
>>14
色々面倒くさいな。

 

15: 2014/05/06(火)23:09:40 ID:???
トルコ人の民族国家じゃないからね。
むしろ純トルコ人は首都の「オスマン人」にとって、「田舎者の羊飼い」として見下す対象だった。

 


18: 2014/05/07(水)13:27:10 ID:???
自称は「オスマン家の高貴なる国家」だっけ

 

19: 2014/05/07(水)15:18:59 ID:???
「オスマン家と愉快な仲間たち」みたいな名前だったのか

 

20: 2014/05/07(水)17:56:13 ID:???
オスマン語で「デヴレティ・アリイェイ・オスマニエ」(オスマン家の崇高なる国家)
現代トルコ語で「オスマンリ・インパラトルルーウ」(オスマン帝国)

 

21: 2014/05/07(水)17:58:03 ID:???
もっとも「デヴレティ」がアラビア語の「ダウラ」から来ているなら、むしろ「王朝」と訳すべきか?
「ダウラ」の語源は「回転する」だから国家より王朝の方が意味は近い

 

22: 2014/05/13(火)07:53:29 ID:???
オスマン帝国の皇帝って後半は完全にスラヴ顔だけど
初代のオスマン・ベイとかの初期の連中はモンゴロイドだったの?

 

23: 2014/05/13(火)21:32:52 ID:???
初代は謎
民族すらテュルクでない疑惑が強い

 


25: 2014/06/04(水)23:25:05 ID:???

ブルサの博物館にあったオルハンの絵。まぁそんなにあてにならんから参考程度に

 

24: 2014/05/16(金)20:58:56 ID:???
トルコ人は元々モンゴロイドだったとかいうのは?
少なくとも突厥時代とかは、東西両方で活動してるけど

 

26: 2014/06/07(土)17:41:43 ID:???
ロクゼラナとか次のヌールバヌとかの繁栄期のスルタンの
夫人は有名だけど、末期の後宮がどんなことになってたのか気になる
ロシアの中央アジア進出以降なんて海外からの女奴隷の調達なんて絶望的
だったはず

 

28: 2014/06/25(水)01:09:19 ID:???
世界の最先端を走ってた国家だったのに最後は…

 

29: 2014/06/25(水)11:24:34 ID:???
最後は、異教徒のイギリス占領軍の味方になったりと晩節を
穢しまくってた

 


30: 2014/06/25(水)17:24:24 ID:???
でもWW1にまけた状況でオスマン皇帝に出来ることあったか?
イギリス占領軍に軟禁されてたような状態だったし・・・

 

31: 2014/06/28(土)17:57:08 ID:???
そもそもイスラームが国教のわりに、イスラム王朝の典型からは外れてて
むしろ、「オスマン朝東ローマ」か「オスマン朝西ペルシア」といってもいいような気はする。

 

33: 2014/06/30(月)21:32:14 ID:???
トルコは親日国

 

34: 2014/08/04(月)00:39:25 ID:???
オスマン帝国の衰退はどのへんから目に見えてきてた?ピョートルのロシアに
黒海とられたあたり?

 

35: 2014/08/04(月)01:39:06 ID:???
第二次ウィーン遠征に敗れた頃にはもう

 

36: 2014/08/04(月)08:52:56 ID:???
カルロヴィッツ条約が決定打

 


37: 2014/08/10(日)14:46:33 ID:???
そもそもオスマン帝国の政治体制って、衰退しないのが不思議でならないくらい、おかしな体制だったしな
後継者が、他の皇位継承候補者たちを皆殺しにするだとか

 

38: 2014/08/13(水)12:21:00 ID:???

最盛期のオスマントルコに初めて黒星を付けたのは、
実はヘタレで戦争弱いと噂のイタリア(ヴェネツィア共和国)
スペインやらジェノヴァやらローマ法王庁やら、全カトリック国の援軍を受けた結果ではあったが、
まぎれもなく大勝利したのはイタリア人の奮闘のお陰

まぁこの辺はマンガ『ヘタリア』にも出てくるから有名な話か

 

40: 2014/08/15(金)17:53:11 ID:???
>>38
ヴェネチアは十字軍に参加してコンスタンティノープルを落城させるという大戦果も挙げているぞ!
アレ?

 

39: 2014/08/13(水)16:04:56 ID:???
やるじゃんヴェネツィア

 


41: 2014/08/16(土)09:12:19 ID:???
>>40
オスマン関係ないやん

 

43: 2014/08/17(日)17:11:22 ID:???

イェニチェリ軍団創設って、天才的発想だよね。

で、ベオグラード近辺の欧州通史的、地勢学的役割の変遷を考えた。

アドリア海を挟んで、イタリア半島に平行して走るバルカン半島の西岸部は古代、イリュリア人の生活圏だったが、ローマ帝国は彼らを傘下に編入せしめると、インフラを整備し、入植政策を進め、同地を゛新イタリア゛と化せしめたのである。ドナウ川を臨むパンノニア、南にセマン湖、コルフ島を臨むダルマティア、モエシアと言った属州はローマ文明の東方フロンティアそのものだった。モエシア、ダルマティア、パンノニアを合算すれば、イタリア半島そのものを上回る領域面積と包含人口であっただろう。古代ローマ帝国はそこを新イタリアに変えたのである。

ビザンチン帝国はこの古代ローマ帝国の東方フロンティアを母胎として、生まれた。コンスタンティヌス大帝のキリスト教導入とは、帝国にとって、不穏な遠心力の源であるキリスト教を逆に帝国自身がキリスト教化する事によって、求心力に変容せしめよう、と言う天才的発想だった。

オスマントルコ帝国は、コンスタンティヌス大帝の東方遷移政策によって生まれたビザンチン帝国を千年後に併呑し、幕引きさせたのであったが、その獲得領域のキリスト教徒をイスラム化させ、軍団編成したのがイェニチェリである。

 

44: 2014/08/17(日)17:40:29 ID:???

ローマ帝国の辺境防御軍団の内、ドナウ川担当の軍団に兵士を供給していたのが、アドリア海西岸の旧イリュリア、帝国の東方フロンティアの原住民(及び入植ローマ人の子孫)だった。

帝国が東西に分裂し、異民族の侵入が繰り返される時代を経て、ラテン人、古代ギリシャ人、イリュリア人、トラキア人の形成する゛文明世界゛にゲルマン、スラブ、アヴァール等の蛮族が新規参入、定着し、正教会文明圏を成立させた。その内でも、スラブ人の影響が特筆されるべきであるのは今日、我々がギリシャ正教圏と呼ぶ国家群の言語を概観すれば、明らかである。

この古代ローマとイリュリア人の混血したモエシア、パンノニア、ダルマティア属州は伝統的にローマ最強軍団、ドナウ川方面軍集団の兵士供給地であった。この地のキリスト教徒をイスラム化させしめ、精鋭軍を組織する、と言うのは卓越した発想であった。

 

47: 2014/08/20(水)14:19:14 ID:???
>>44 そこまで考えていたかどうか…
ローマ帝国について詳しく知ってたのは、メフメト2世位でないの?

 


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